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掛塚廻船問屋

図書館から「静岡県明治銅板画風景集」を借りてきました。
こちらに掲載されている掛塚の廻船問屋をご紹介します。

1 回漕業及材木商 津倉勘六
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津倉家は掛塚の廻船問屋を代表する豪商の一つで、屋号は江戸屋です。御当主が亡くなった後は、建物の管理が難しくなり、磐田市へ寄贈されました。
そこで、津倉邸の保存と町おこしのために発足したのが「みんなと倶楽部」です。私も父と親子で会員となり活動しています。現在、会員募集中ですので、興味のある方はこちらをご覧ください。

・記念写真
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銅板画の奥に2棟の蔵が並んで建っています。この写真はその右側にある、なまこ壁の土蔵前で撮った津倉家の結婚式?の様子です。

明治時代、砂町には江戸屋と油屋の2件の廻船問屋があり、この記念写真は油屋から江戸屋、つまり津倉家へ嫁入りした時のものと思われます。

同じ町の廻船問屋同士の結婚ということで、花嫁衣裳に使った打掛けは町に寄贈され、砂町屋台の見送り幕として長く使われていました。
この見送り幕については、別の機会に詳しくご紹介していきたいと思います。

・同じアングルの写真
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結婚式と同じアングルで撮ってみました。左側にある伊豆石の蔵は現存していますが、残念ながら、なまこ壁の土蔵はにコンクリート製の倉庫となっています。

・現在の様子
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母屋は明治22年に建てられています。昭和10年に右側の洋館を増築しているため、銅板画とは若干異なりますが、津倉邸は当時の面影を色濃く残す掛塚の宝です。

・つたや邸
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銅板画で2棟並ぶ蔵の右側に、母屋より若干小ぶりな建物が見えます。
これが現在の、つたや邸で、津倉家とは道路を挟んだ対面のお宅ですが、曳家をして移築したそうです。
移築前、この屋敷は、津倉家の隠居宅として使用していたそうですが、今も現存しており、非常に立派な造りです。

2 回漕業及材木商 松下文次郎
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松下家は、上の松下、中の松下、下の松下と別れていますが、下の松下が本家であり、銅板画にあるとおり大豪商で、屋号は中屋です。

明治時代、油屋から、この中屋へも嫁に出ており、先ほどご紹介した江戸屋へ嫁いだ人と、中屋へ嫁いだ人は姉妹になります。

このように、当時の廻船問屋は政略結婚的なこともしていたようです。廻船業は一度荷物を運べば、多くの利益を生みましたが、難破し帰港できなければ大損害です。
浮き沈みの激しい業界のため、イザという時に備え、親戚関係を築いていったように思います。

・我が家に残る難破船の資料
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何が書いてあるのか難しくて読めませんが、船が難破したことだけは分かります。御先祖様も相当な苦労があったようです。このことからも分かるように、掛塚の氏神である貴船神社は海の安全を守る神様で、廻船問屋の信仰も厚かったようです。

・上の松下
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これは、上の松下の引き札で、明治時代は酒造業を営んでいたようです。引き札とは、当時の広告のようなもので、どれも煌びやかな図柄で見る人を惹きつけます。

現在、中と下の松下家の子孫は他へ移り住んでおり、寂しくなってしまいましたが、唯一、上の松下は白羽に残っており、当時の建物も現存しています。

・伊豆石の蔵
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銅板画の後方にある蔵で、我が家に1枚だけ写真が残っていました。蔵の周りは何もありませんね。

・同じアングルの写真
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現在、この蔵は掛塚郵便局の長谷川氏が所有しており、郵便局と蔵の両方が国の登録有形文化財に指定されています。

3 回漕業及材木商 林文吉
林文吉
林家も大豪商で、静岡銀行の創業者、平野又十郎の生家として地元では有名です。残念ながら母屋はありませんが、伊豆石の壁と、なまこ壁の土蔵が残っています。
この蔵には、あの有名な信州諏訪の名工、立川和四郎が3年滞在して、中町の旧屋台の彫刻を彫ったそうです。この屋台は火災で焼失し、現存していませんが、立川家に請負書や彫り物の図面が残っています。

・廻船問屋 林邸
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銅板画のとおり、大豪邸です。この写真からも分かるように、銅板画は忠実に当時の風景を模写しています。

・現在の様子
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植物に覆われ、分かりにくいですが、伊豆石の塀が現存しています。

・林家の土蔵
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銅板画でいうと、左奥の大きな蔵がこちらですね。なまこ壁が美しいです。
私の知る限り、掛塚でなまこ壁の蔵が現存するのは、この1棟だけです。

4 回漕業及材木商 川島平次郎
川島平次郎
最近まで母屋が現存していましたが、残念ながら取り壊され、今では見ることができません。
取り壊し前の様子はこちらをご覧ください。

5 清酒醸造 鶴谷長平
鶴谷長平

・現在の様子
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鶴谷家は国の登録有形文化財に指定されている老舗の酒屋で、現在も営業中です。
銅板画でいうと、一番右側の建物になるのでしょうか?

お店の名前は「つるや酒店」ですが、苗字は「つるたに」さんのため、混乱しそうですが、何か使い分けている特別な意味があるかもしれませんね。
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2020/08/30 (Sun) 00:00 |郷土史 |コメント(2)

掛塚小学校

・大正15年の掛塚尋常高等小学校卒業記念写真
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・掛塚小学校
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・現在の様子(竜洋西小学校)
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正面に見えるソテツと、その右側の二宮金次郎像は当時のものが残っている感じです。しかし、左右の石柱はサイズ的に小ぶりで新しくなっているようです。

・旧掛塚小学校跡地
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西光寺の南には旧掛塚小学校があったようです。

・西光寺のガラス戸に写る砂町屋台
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・史跡案内
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看板によると、明治19年には現在の場所である川袋に移転しています。
父が幼稚園の頃は、西光寺の敷地内に園舎がありましたが、昭和19年の地震で倒壊したそうです。

父の話によれば、大きな揺れがあったため、全員屋外へ避難した後に倒壊したそうで、父は園舎が倒れる瞬間を目撃したとのことです。もし、中にいて下敷きになっていたら・・・
私はこの世に存在していないですね(°_°)

園舎倒壊後は、戦時中のため建て替える余裕もなく、しばらく幼稚園はなかったそうです。

・火鉢?
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我が家の蔵の中で誇りを被っているのを発見しました。
「記念・掛塚小学校父母と先生の会」と記されています。今のPTAでしょうか?
掛塚小学校は現在、竜洋西小学校となっていますが、平成28年に開校100周年を迎えました。
その際に建てた記念碑がこちらです。

・開校100周年の記念碑
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西小の校歌の一部ですね(^∇^) 
卒業生ならメロディーも頭に浮かんできます♪ 身が引き締まる思いです。

・歴代のPTA会長
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歴代の会長名を見てみると、砂町率めっちゃ高いような気がします。僅か50件余りの小さな町ですが、3名の方の名前が確認できます。しかも、同じ人が2回やってるし・・
すごいなーと思いつつ・・何故か・・・

成り行きで、私も今年度、僭越ながらPTA会長を務めさせていただいております。引き受けたからには子供達のために責任をもって取り組んでいこうと思います。
しかし、コロナの影響で活動もままならなず、悩みが募る毎日です(´・_・`)

特に、修学旅行や観音山への合宿は変更を余儀なくされており、子供達が可哀そうでなりません。
ただただ、コロナの終息を願うばかりです。

2020/08/22 (Sat) 00:00 |郷土史 |コメント(0)

掛塚の街並み

・我が家から角屋雑貨店方面を撮った写真
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砂町の角屋さんには立派なお蔵があったようです。残念ながら取り壊され今では見ることができませんが、伊豆石で作られた母屋は現存しています。蔵の奥に屋根が少しだけ見えているのが母屋です。

・同じアングルの写真1
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真ん中が汚れていて見にくいですが、蔵の手前の平屋に大きな看板が付いています。
多分こちらの方が古い写真ですが、何のお店だったのか気になります。
このお宅はゲタマツという屋号で、清水次郎長の子孫が住んでいたそうです。

・同じアングルの写真2
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前の写真は2階から撮影していますが、これは地上から撮ったもので、アングルはほぼ同じです。
この時、すでに角屋さんのお蔵はありません。
昭和30年頃の写真で、未舗装の道路とパチンコ屋さんに時代を感じます。

写っている屋台は、大当町のもので、江戸の寛政10年(1798年)建造と言われています。現存する掛塚の屋台では最も古く、今から222年前のものです。破風に絡み付く竜の彫りは必見です。

・現在の様子
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街並みは全く変わってしまいましたが、電柱の位置は今も昔も変わらないことが分かりました。
ちなみに現存する角屋雑貨店の母屋は、以前にもアップしましたが、こちらです。
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・尾崎医院付近
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昭和40年頃の写真。とってもモダンな建物ですね。尾崎医院はこの建物よりもう少し奥にあったようです。

・現在の様子
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今は公園となっており、その一部に津波避難タワーが建っています。
2020/08/15 (Sat) 00:00 |郷土史 |コメント(0)

掛塚商店街

掛塚は商人の町として栄えた港町です。
港町というと漁業のイメージが強く、当然掛塚も盛んであり、我が家にも捕鯨用の道具があったそうです。私が子供の頃、近所に6件の魚屋さんがあったのを覚えています。

掛塚では、この漁業より更に盛んだったのが廻船業であり、天竜川上流から運んだ物資を船で日本各地へ運び繁栄しました。当時は多くのお店が軒を連ね、「遠州の小江戸」と呼ばれていたそうです。
しかし、今では大半の店が閉じてしまい、残るは数件のみとなってしまいました。

・掛塚商店街の案内図
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掛塚町時代の案内図。地図上で建物が現存するのは、角屋雑貨屋、つるや酒店、港屋魚店の蔵ぐらいでしょうか?
もう建物はありませんが、地図に載っているお店をご紹介します。

・江戸川
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横町にあった遊郭ですね♪───O(≧∇≦)O────♪
昔、掛塚祭りは月曜の朝まで屋台が出ており、屋台小屋へ帰ることなく、そのままお宮まで持っていき解したそうです。

21時に格納する現代では考えられませんが、一晩中ずっと屋台が出っぱなしでした。81になる父が小学生の頃、お祭り明けの月曜日は屋台を横目に見ながら登校したそうです。
では、何故、夜に屋台が動かなかったかというと・・・
どうやら、このお店たちが原因のようですね(=∀=)

・掛塚クラブ
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地図上ではカフェークラブとなっています。とてもハイカラで大正浪漫を感じる建物です。
私が子供の頃、既にこの建物はありませんでしたが、木村屋という飲食店がありました。もう一度あのラーメンが食べたいなぁ。

次は、地図上に何故か載っていませんが、今も続く呉服店をご紹介します。

・老舗の田中屋呉服店
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・明治時代?の田中屋の引き札(今の広告のようなもの)
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我が家の蔵に明治から大正期の掛塚商店街の引き札が19枚残っており、「みんなと倶楽部」の活動を通じて公開しました。様々な業種の引き札があり、明治時代の繁栄ぶりが伝わっています。詳しくはこちらのサイト をご覧ください。

・田中屋の巾着袋(表と裏)
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掛塚町時代のもの。大分汚れボロボロですが、掛塚人としてはこんな物にも愛着が湧きます(*^_^*)

次は、地図上で現存する建物をご紹介します。

・つるや酒店と田町屋台
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つるや酒店は登録有形文化財に指定されています。

・現存する角屋雑貨屋
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伊豆石でできた希少な建物です。

・現存する港屋の蔵
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こちらも伊豆石でできた希少な蔵です。

こうしてみると、当時の建物は数棟しかなく時の流れを感じますが、現存する建物は掛塚の歴史を語る上で非常に重要です。是非、後世に残していってほしいですね。
2020/08/08 (Sat) 00:00 |郷土史 |コメント(0)

掛塚橋と金洗橋

掛塚は天竜川河口に位置する小さな町で、上流から運んだ木材等を江戸や大阪に船で運んで栄えた港町です。

その天竜川下流には2つの大きな支流(東派川と西派川)があり、掛塚その中洲にある町でした。
我が家に本流に架かる「掛塚橋」と東天竜に架かる「金洗橋」の写真がありましたのでご紹介します。

・明治時代の掛塚橋
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・前の写真をアップにして
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・小舟から掛塚橋を撮影
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・昭和12年7月の金洗橋(私の祖父が橋から虹を眺めています)
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昭和19年に東派川の締切りが完了、昭和26年に西派川の締切り工事が完了し、天竜川は現在の形となりました。一本の真っすぐな川となったため、金洗橋はもう存在しません。ちなみに金洗橋の正式名称は長豊橋だそうです。
この時期は戦時中の食糧難であったため、締切工事によってできた広大な河川敷は一気に開拓が進み、食料増産に寄与したそうです。また、戦後は竜洋中学校やなぎのき会館等の公共施設や住宅、工業用地に生まれ変わっていきました。

2020/08/02 (Sun) 15:14 |郷土史 |コメント(0)

我が家

  ・廻船問屋当時の我が家 (昭和56年に取り壊し)IMG_20200724_092511.jpg 
明治時代、我が家は廻船問屋を営んでいたそうですが、当時の資料はほとんど残っておらず、母屋も私が小学生の頃に建て替えられてしまいまいした。

・我が家のお蔵
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唯一、建物として残っているのが、このお蔵。伊豆石ではありませんが、大切に保存していきたいです。蔵の中身はというと・・・
残念ながらガラクタばかりで、お宝は発見できませんでした。(T_T)
でも、掛塚に関する明治以降の資料は多少残っていましたので、少しづつご紹介していければと思います。

 ・蔵の鬼瓦はカクヤマ
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我が家の屋号は「油屋」ですが、なぜか印はカクヤマです。
廻船問屋を営む前の江戸期は菜種油を扱う商売をしていたようで、そのまんまの屋号です(#^.^#)

・焼印
 
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当時の焼印が今も残っていますが、取手の部分は虫食いでボロボロです。天竜川の上流から流してきた材木を河口の掛塚で一度引き上げ、木挽きが製材し、その1つ1つに焼印を打って、どの店も物か目印を付けていたのでしょうか?

・庭の門
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もう一つ残っている物がありました。庭の小さな門ですが、新旧を同じアングルで撮ってみました。
ちなみに旧写真に移っている幼児は、昭和14年生まれの私の父で、抱っこしているおじいちゃんは、明治4年生まれの私の曽祖父です。
ということは、今から約80年近く前の写真ですね。
父は今も元気に庭の草取りに励んでいます(*^_^*)


2020/08/01 (Sat) 12:53 |郷土史 |コメント(0)

ブログを開始しました!

はじめまして。磐田市掛塚在住の南海丸です。

超アナログ人間でパソコン系は大の苦手ですが、少しでも掛塚の魅力を発信していければと思いますので、よろしくお願いします。

掛塚の魅力と言えば何といっても掛塚祭り。9ケ町から絢爛豪華な屋台が引き出されます。
毎年10月の第3土曜・日曜が大祭日ですが、今年は新型コロナの影響で神輿の渡御も屋台運行もなく、新しい写真を撮ることはできないので、昔の写真を掲載します。

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この写真は砂町の本舞台(明治29年再建)と曳舞台(昭和9年建造)を昭和中期に撮ったものですが、現在、砂町は曳舞台を運行しておらず、今となっては貴重な写真です。昔、掛塚では本舞台は男児、曳舞台は女児と子供達の乗る屋台が分けられていたようです。 


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写真で注目して頂きたいのは、掛塚の街並み。新旧を同じアングルで撮ってみましたが、すっかり変わってしまい、今も残っているのは右手に見える掛塚郵便局とその手前のお宅くらいでしょうか?寂しい限りです。


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左手に蔵が半分写っています。昔は掛塚のあちらこちらに蔵があり、特に伊豆石で作られた蔵には趣を感じます。今も数棟が現存しており、港町としての面影を残しています。
2020/08/01 (Sat) 00:00 |掛塚祭り |コメント(0)

プロフィール

南海丸

Author:南海丸
江戸から明治にかけ湊町として栄えた掛塚に在住の50代。
廻船問屋を営んでいた頃の船「南海丸」の名を借りてブログの世界へ出航し、掛塚の魅力を発信していきます。

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