かつて掛塚は遠州の小江戸と呼ばれるほど栄えたそうですが、住宅が密集すれば火災の危険も大きくなり、幾度となく大火を繰り返した歴史があります。
よく言われるのが、明治16年の大火で砂町屋台、明治32年の火災で横町、田町の屋台、明治36年頃に中町屋台が焼失しており、実に4台もの屋台が被害にあっています。
しかし、消防もただ指をくわえて火事を見ていたわけではありません。
貴船神社の記録によれば、明治33年の火災は「午前3時、十郎島より出火し、類焼百戸、関居住宅(宮司宅)災に罹る。社殿も既に奇禍に罹らんとしたけれども、消防の尽力により幸いに危機を免れたり」とあり、間一髪のところで社殿の被災を免れたことを示しています。
「火事と喧嘩は江戸の華」の言葉どおり、小江戸と呼ばれた掛塚でも火消しの活躍が伺えます。そこで今回は、掛塚の消防史について、我が家に残る資料を元にご紹介したいと思います。
1 明治27年 長上郡掛塚村 消防組第二部小頭の任命書
私から4代前の方の任命書です。小頭というと、今の分団長でしょうか?
注目すべきは、左側の静岡県警察部のところです。昔は、警察の内部に消防が含まれていました。
といっても、常備消防(消防署)があるわけではなく、店を経営しながら町の火消も兼務する非常備消防(消防団)が中心の時代であり、自分の町は自分で守る自助共助の精神が浸透していました。今、東南海地震が叫ばれる中で、今一度この精神を見直す必要があると思います。
2 明治27年 長上郡掛塚村 消防組第二部消防手の任命書
私から3代前の方の任命書です。消防手というと、普通の団員といったところでしょうか?
先ほどと同じ明治27年の任命書なので、親子で消防に携わっていたことが分かります。
3 昭和38年5月の写真
今から57年前の写真で、私の祖父です。「竜洋町」の文字が懐かしく感じます。
昭和39年4月 消防団春季演習
レトロなオープンカーの消防車でカッコいいですが、冬場は寒くて凍えそうですね。
場所は竜洋中学校のグランドでしょうか?
4 昭和40年代の写真
竜洋町消防団が貴船神社の社殿前で撮った写真です。車両の古さに時代を感じます。
向かって後列、右から2番目の眼鏡をかけているのが私の父です。
明治33年の火災で消火に失敗していたら、この社殿はなかったことになりますね。
こちらは夏用の作業着です。
訓練の見学でしょうか?
今の半分位の体系の父(左側)です。私も年を取ったら太るのか非常に心配です。
5 現在の防火衣
これは私の防火衣です。防火衣といっても燃えないわけではなく、燃えにくい素材でできています。ただ、非常に分厚く、真夏の火災はこれを着て活動するとすぐ熱中症になってしまうため、インナーに保冷剤を入れて対応していますよ(#^.^#)
6 明治時代の防火衣
新旧の防火衣を比べてみました。
向かって右側が我が家のもので、左側が角屋さんのものです。同じ砂町同士なので、明治時代、火消しの帰り道はこんな後ろ姿だったんでしょうか?
刺子半纏はリバーシブルとなっており、表は紺の無地で裏が写真のように歌舞伎柄のデザインです。
江戸の火消しは消火時に表を着て、消火後は裏を着て粋に引き揚げるそうです。どんなに疲れてヘロヘロでも、やせ我慢してカッコつけるところに心意気を感じます。
先ほど、右側は我が家のものと言いましたが、正確には津倉家から頂いたもので、元は津倉貞三氏の刺子半纏です。私が消防吏員になった際、お祝いに津倉捨蔵氏(貞三の子)から直接頂きました。捨蔵氏の母親は明治時代に我が家から嫁入りして親戚関係にあるため、気前よくくれたものです。
この刺子半纏は、我が家の家宝として大切に保管していきたいと思います。
以上、明治から令和にかけ、我が家の5代に渡る消防史をご紹介しました。
ちなみに、磐田市消防本部の情報がまとめられている消防広報誌「べっくん119」は
こちらのサイトをご覧ください。
これから空気が乾燥して火災シーズンに入ります。火の元には十分ご注意ください。
~ 火の用心 ~!! (秋の火災予防運動週間11/9~11/15)