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掛塚屋台とお囃子(砂町編)

前回の続きで、掛塚屋台とお囃子の砂町編です。

我が砂町(す組)については、以前に天幕特集を載せているので、こちら(天幕見送り幕)もご覧ください。

・昭和44年の冊子
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この当時、駒寄にサラシはほとんど巻いていません。楽でよさそうですが、見栄えは、ちょっと・・という感じです。

・昭和52年の冊子
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棟梁は本町屋台と同様の鈴木岩重となっていますが、現在は砂町住人の鈴木庄吉とされています。

平成12年に大掛かりな修復をしたため、構造は他町と同じになっていますが、修復前は下駄箱や腰組子等、独特の造りとなっていました。

多くの掛塚大工が携わっている可能性が高く、特に破風の墨付けに関しては鈴木勇次郎が手掛けたとの考えもあるそうです。

・明治29年の台帳
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残念ながら棟梁の名前は記載されていませんが、砂町屋台が明治29年の作であることは間違いありません。

・見送り幕の左右の長提灯
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これは、我が家にあった数少ない屋台の写真の1枚です。

右下のおじさんの顔に隠れて見えづらいですが、見送り幕の隣に長提灯がぶら下がっているのが分かります。今は新町のみがこの場所に提灯を付けていますが、昔は砂町も付けていたようです。詳細は先輩の「よしじろうブログ」に写真が掲載されていますので、こちらをご覧ください。

現在、砂町は提灯ではなく、赤熊(しゃぐま)というヤクの毛でできた房を付けています(#^.^#)
これは、屋台が辻々を曲がる際、赤熊が揺れる様子をヤクの毛が払われることに例え、「厄が払われる」とされています。

砂町屋台の特徴は、何と言っても掛塚で唯一の白地である天幕と、金箔・飾り金具です。
高欄や螺鈿の部分に付く金具は砂町のみにあるもので、自慢の一つになっています。

でも、やっぱり掛塚で最古の天幕がす組最大の特徴であり、宝です。
質素な幕ですが、愛着があり、この幕じゃなければダメなんです。

総世帯数、約50件の小さな町で、少子高齢化が直撃していますが、何としてもこの屋台を後世に継いでいけかなければなりません。

以上、簡単ですが、砂町屋台の紹介でした。


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2021/01/23 (Sat) 00:00 |掛塚祭り |コメント(0)

掛塚屋台とお囃子(本町編)

今でこそ、掛塚祭りの冊子やパンフレットはいろいろな種類が出回っていますが、私が子供の頃は今回ご紹介する「掛塚屋台とお囃子」しかありませんでした。

流石に当時はカラーの冊子となっていましたが、改訂前のモノクロの冊子が倉庫から出てきましたので、新旧を比べてみます。

・昭和44年8月 冊子の表紙(旧)
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すべてモノクロで、簡素な感じの冊子です。

・昭和52年9月 冊子の表紙(新)
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先の冊子から8年後に改訂版が出ています。私がよく見たのはこの冊子で、カラー刷りに進化しています。表紙はモノクロですが、背景が写真入りとなっています。

今年はコロナが収束し、お祭りが無事できることを祈願して、一町づつ順番にご紹介していきたいと思います。

・本町屋台(明治13年建造)
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冊子は写真が差し替えられ、カラーになっていますが、説明文はそのままです。
屋台製作は明治3年となっていますが、正確には明治13年であることが分かっています。

本町屋台の特徴は雄大で肩を張ったような破風と腰の組子で、貴船神社お膝元の町として威厳を放っています。

また、左右の欄間の彫り4枚中、3枚(竹・梅・菊)は立川専四郎富種が明治13年に作成したもので、繊細かつ立体的な見事な彫りです。
残りの1枚である蘭の彫りは、地元の鈴木重直が担っており、ふっくらとした彫りは専四郎富種に引けを取らない腕前であったことを証明しています。

本町屋台は、屋台本体、天幕、彫物のどれをとっても絢爛豪華で、掛塚を代表するすばらしいものです。個人的には破風の形が掛塚9町の中で一番好きです。

・本町旧屋台
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これは、広報竜洋の記事ですが、旧本町の屋台が、2階建てであったことを紹介しています。

記事によると、明治5年頃、二俣町に売却された本町の屋台が、明治24年には二俣から宇布見へ売却されたとなっています。記事には載っていませんが、土台に「本若」と墨書きがあることが掛塚本町の屋台であったとの証だそうです。

言い伝えによると、掛塚では本町、砂町、横町の3町が2階建であったとのことで、砂町も旧屋台の天幕が現存し、丈が短いことがその証とされています。
確かにこの写真でも、天幕は丈が短く、旧砂町屋台もこの部分に天幕が張ってあったと思われます。

掛塚の屋台は現在、全て一層唐破風作りに統一されていますが、この本町旧屋台は掛塚屋台のルーツを探る上で貴重な存在であり、今後も末永く守り続けていってほしいと思います。

少し話がそれてしまいましたが、以上、掛塚屋台とお囃子(本町編)でした。



2021/01/17 (Sun) 21:01 |掛塚祭り |コメント(0)

遠州随一の港町 今は昔・・・

家の資料を整理していると、ある新聞の切り抜きが目に留まりました。
全文を読んでみると・・

・1994年(平成6年)1月7日の新聞記事
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天竜川と遠州灘の合流点に近い竜洋町駒場のヨシ原。そのわきに「掛塚港跡」の立て看板を見つけた。

でも、不思議。目を凝らしても港の面影をしのばせるものは何一つない。堤防道路に遮られ、海につながってさえいない。しかし、確かに、かつて「遠州の小江戸」と呼ばれ、景気よく千石船が行き交った遠州随一の商業港が、ここにあったという。

掛塚湊の起源は古い。既に室町時代半ばの文献に登場、室町末期から江戸、明治時代にかけて繁栄を続けた。都での建設需要の高まり。北遠の山間部で切り出された材木が天竜川を下り、掛塚港から大阪へ、江戸へと荒波を超えた。港町に軒を連ねる廻船業や材木商の豪邸。飲食店、花柳界もにぎわいを見せた。

しかし、掛塚港は、もともと気まぐれに変わる天竜川の流れ次第で場所を移した不安定な港。何より遠浅で砂も堆積しやすく、港としては悪条件だった。

近代化を目指して地元廻船業らは明治16年に築港に着手。2年掛かりで東西430m、南北215mの港を、今の港跡に造ったが、元来の悪条件に追い打ちを掛けるように、明治22年には東海道線が開通し輸送の主流は鉄道に移り、掛塚港は衰退の一途をたどった。

「夢よ、もう一度と思いましてね」隆盛を誇った廻船業者「油屋」の三代目、池田正太郎・元竜洋町長(80)=同町掛塚=は、昭和40年代の町長時代、掛塚港再建を県に陳情した。「浜松の経済界も応援してくれましてね。でも、無理でした」
港への衰惜。しかし、池田氏も子供のころ、「最後の千石船の進水を見に行った」記憶しかない。

「ぜひ、記録に残しておきたい」福長利晴さん(68)=竜洋町豊岡=が会長を務める郷土研究会では、昭和62年から3年掛かりで掛塚港を調査し「掛塚湊(みなと)物語」をまとめた。「資料集めには苦労しましたが、港は郷土の誇り。文化的な影響もとても大きかった」と愛着を込めて語る。

ヨシ原の港跡から北へ。掛塚の細い道を歩くと、船の重しとして下田港から運搬されたという伊豆石で築かれた塀や、当時の豪邸、石蔵が目に付く。少し、港の面影が色を帯びてくる。

「もしも、貿易港があったら」と、清水、豊橋両港に挟まれた遠州地方の人々はつぶやいてきた。しかし断固として港を阻んだ河口の砂浜が冬の日差しに白く輝く。

以上が記事の全文です。私が学生の頃に切り抜き、保存していたものですが、今こうして読んでみると、とても勉強になります。掛塚湊のことが簡潔に分かりやすく説明されていますね。

・海岸  私、捨蔵、杉本〇、弟、五郎、○○君
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これは、私の祖父が子供の頃に海岸で撮った写真です。新聞の記事に、子供のころ「最後の千石船の進水を見に行った記憶しかない」とありますが、正にこの頃のことではないでしょうか?

・掛塚湊跡
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この時、既に港の面影をしのばせるものは何もありません。

・記念碑
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今は、しおさい竜洋内に記念碑があるのみです。実際の港は、この場所から南東側にあったそうです。

・掛塚燈台
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先の写真と同じ時期に撮ったものと思われます。灯台の姿は今も昔も変わりませんね。

・天竜川にて(才平屋・郵便局)
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近所の子供達と一緒に魚採りをしているのでしょうか? 奥に見えるのは掛塚橋ですね。

・天龍河口
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河川敷と天龍川しか写っていませんが、当時の河口の様子です。

・天龍川堤防
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石がきれいに積まれています。船着き場でもあったんでしょうか?

以上、掛塚湊の栄枯盛衰をご紹介しました。

記事にある「夢よ、もう一度」のように港の再建は無理としても、みんなと倶楽部の活動を通じ、少しでも掛塚を盛り上げていきたいと思います。


2021/01/07 (Thu) 00:00 |郷土史 |コメント(0)

プロフィール

南海丸

Author:南海丸
江戸から明治にかけ湊町として栄えた掛塚に在住の50代。
廻船問屋を営んでいた頃の船「南海丸」の名を借りてブログの世界へ出航し、掛塚の魅力を発信していきます。

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