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掛塚屋台とお囃子(大当町編)

前回の続きで、掛塚屋台とお囃子の大当町編です。

・昭和44年の冊子
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・昭和52年の冊子
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大当町の屋台の特徴は、掛塚最古(1798年建造)という歴史はもちろんですが、何といっても破風に絡み付く雌雄竜の彫りでしょう。破風は小ぶりながらも、それを感じさせないほどの迫力があり、見事の一言です。

天幕は3面すべて違った物語で構成されていますが、特に横面の竜は豪快な図柄で、個人的には破風の雌雄竜をも凌ぐ迫力があると思います。

また、掛塚では最もまとまり感のある町で、世帯数は少ないながらも団結力は非常に強いイメージがあります。

・JAときめきネットワーク(シリーズこの人に聞く)
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これは、1993年11月のJA遠州中央ときめきネットワークに掲載された記事で、故、大石清さんのインタビュー記事です。全文を読んでみると・・・

竜洋町掛塚の屋台は、精巧な彫物や天幕の刺しゅうが施された、豪華絢爛な御殿屋台として有名です。なかでも、大当町の屋台は歴史も古く見物客の目を魅了して来ました。
今月の「この人に聞く」は、この大当町で大工として長年職人の目から屋台を見続けると共に、全国の祭りも見学しながら、掛塚屋台の歴史を後世に伝えるべく、執筆活動をしておられる大石清さんを訪ねました。

掛塚の屋台は大変立派な御殿屋台ということで有名ですが、その前にこの町の歴史について簡単に話していただけますか?

大石:掛塚は古来より東西の海上の中継地点として機内に次いで栄えた町であり、その起こりは廻船業の発達からだと思います。
桑名、尾張宮、鳥羽の各港より、掛塚港を経て江戸へ物資の輸送の中継地点として栄え、小江戸とさえ呼ばれた時もあったそうです。

そんな歴史と屋台はどういう関係があるんでしょうか?

大石:この小江戸と呼ばれていた頃、船頭、水夫達が見聞きした屋台を廻船業の財力と工匠たちの知恵で造った物と思われます。

掛塚には何台の屋台があるんですか?また、いつ頃造られたんでしょうか?

大石:現在8台の屋台があります。現存している物で一番古いものは、大当町の屋台で1799年(寛政十一年)に尾張お抱え大工の作と伝えられています。ですから、あと4年で200年祭にあたるんですよ。また、その他の屋台は火災で焼失し(木材の木挽き業が多かったことから火災が多発した)明治、大正にかけて再建されました。

大きさを教えていただけますか?

大石:高さは16尺(約5m)幅が5尺(約1m50㎝)奥行が10尺(約3m)重さは2トン半くらいですね、

彫り物や天幕も素晴らしいんですが、いろんな意味があるのでしょうか?

大石:大当町の屋台は雌雄竜や二見ヶ浦、雷神、雷獣、狛獅子など見事な彫刻を先陣の宮大工は現代に残してくれました。また、天幕の正面と横の図柄は、それぞれ造った物語で構成されていて今昔物語の五巻十三説の話も表されているんですよ。この図柄に使われている金糸は、横綱の化粧廻しと同じ糸なんです。

今、これだけの屋台を造るとすると、いくらぐらい掛かるんでしょうか?

大石:材料費、人工代など全てを含めると2億円くらいは掛かるでしょうね。

神社は貴船神社でしたね?

大石:ええ、そうです。京都の貴船神社の分かれで、水を治める女神が祭られているんです。暴れ天竜を鎮めてもらいたい、あるいは海上の安全を祈願するところからこのお祭りは始まったんでしょうね。この神の父は「いざなぎの尊」です。

祭りは昔から10月に行われていたんですか?

大石:いいえ、昔(明治の終わり頃)は8月に行われていたんです。その後、9月になり今の10月になったんです。ですから昔の写真を見ますと、みんな浴衣で屋台を引いていますよ。結局、8月は台風など海が荒れる日が多くて、仕事にならないから、その時期に行ったんでしょうね。

それじゃ、法被姿じゃなかったんですか?

大石:法被になったのは戦後だと思いますよ。だんだん衣装も派手になって、お金が掛かりすぎるというので、法被になったんです。

山車と屋台の違いについて教えて頂けますか?

大石:屋根の上部人形などを飾ったものを山車と言うんです。二輪とか四輪で区別しているわけではありません。また、呼び名も地方によって変わり、ねぶた、だんじり、山笠など様々です。山車が祭りに初めて登場するのは京都の祇園祭りで、長徳四年(998年)夏祭りからで、もう千年の歴史があるんですよ。山車の本来の意味は、神の依りしろを示す象徴のことで、数ある木や棒のなかで、これぞ神の依るべき木ということを示すため、茅や杉の葉をその先に付けて出したことから生まれた言葉で、その後、山車が人の方や車で運ばれるようになると、移動神座として山車の原型が生まれたようですね。

これだけの屋台を維持していくのは大変な苦労があると思いますが?

大石:「祭り百日、屋台五十年」と言われるように、各地区の屋台も大修理を行っていると思いますよ。この大当町の屋台も昭和に入って大修理が行われたんですが、全戸数45軒の出費には限りがあると思うんですが、当時の婦人達が「三杯の飯を二杯にしても金は作る」と言って、金箔を張り替えてようですが、今思うとすごい情熱だったんでしょうね。

大石さんは全国各地の屋台を見て回られたそうですが、ベスト3をあげるとしたらどこでしょうか?

大石:「秩父の夜祭り、高山祭り、京都の祇園祭り」はすばらしいと思います。でもこの掛塚の屋台も決して見劣りはしませんよ。それにもう一つ、高山の少し北に古川という所があるんですが、ここの屋台も素晴らしいですよ。一度見に行って御覧なさい。

屋台は全国にあるんですか?

大石:主に東京から西、そして京都、大阪から東の地区で、他の地区は山車が主ですね。

最後に掛塚祭りの一番いいところを教えてください。

大石:確かに屋台は歴史があって、彫り物や装飾品も高価ですが、子供からお年寄りまでみんなで楽しめる祭りだと思います。子供達が屋台に乗って手摺から見ている姿は、まさに生きている彫り物といってもいいでしょう。

以上が記事の全文です。
令和元年に大修復を行い、化粧直しもした大当町屋台に、天国の大石さんも喜んでいることと思います。

掛塚最古の屋台として、誇りと伝統を末永く後世に受け継いでいってほしいですね。
以上、大当町屋台の紹介でした。



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2021/02/28 (Sun) 13:38 |掛塚祭り |コメント(0)

掛塚屋台とお囃子(田町編)

前回の続きで、掛塚屋台とお囃子の田町編です。

・昭和44年の冊子
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・昭和52年の冊子
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旧田町屋台は明治32年の大火で焼失し、その後、再建できないまま戦後を迎えましたが、昭和27年に掛塚の名工、坂田歌吉の血を引く小池佐太郎が再建しました。

当時、彫りはなく、天幕も無地の屋台でしたが、掛塚最小世帯の町で屋台を再建することは並大抵の苦労ではなかったと思います。

昭和57年から浦部一郎が彫りを担当し、平成11年には漆塗装、そして令和元年には天幕の新調など、実に屋台建造から67年の歳月をかけ完成に至っており、町の方々の祭りに掛ける情熱には、ただただ感服するばかりです。

特に天幕は南総里見八犬伝を題材としており、見ごたえのある幕に仕上がっています。

マニアックな部分ですが、個人的には屋根の提灯掛けの形が一番好きで、豪快な鬼板と調和して、より一層破風を大きく見せていると思います。

・宮入する田町屋台
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私のイメージでは、田町と言えばこの一松模様の法被です。
今は大半の町が紺地となり、個性がなくなっていく中で、個人的にはいつか復活させてほしいと思っています。

以上、簡単ですが、田町屋台の紹介でした。

2021/02/21 (Sun) 00:00 |掛塚祭り |コメント(0)

掛塚屋台とお囃子(横町編)

前回の続きで、掛塚屋台とお囃子の横町編です。

・昭和44年の冊子
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・昭和52年の冊子
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明治32年の大火で焼失した先代屋台は2階建てとの言伝えがありますが、詳細は不明です。
ただ、それ以前の屋台は、旧福田町の十の三番組で今も「福助屋台」として活躍しており、旧本町屋台と並んで掛塚屋台のルーツを探る貴重な存在です。

現在の屋台は明治40年に掛塚の名工、平野勘蔵が手掛けています。

特徴は掛塚で唯一、組子が梨地塗りである点です。一見地味に見えますが、金箔より値が張るそうで、とても価値のあるものです。
また、腰板は中町と同じく欅の玉目で、今では手に入らない貴重な材を使用しています。

彫りは、伊藤松次郎や大村善太郎が大半を占め、どれも分厚く迫力があり、天幕も図柄が大きく、圧倒的な存在感があります。

横町や新町は、かつて掛塚で一番賑わった町であり、その繁栄ぶりが十二分に伺える素晴らしい屋台です。

・昭和50年に発行された掛塚祭写真集
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これは、昭和50年に発行された写真集の1枚です。のどかな風景と昔の法被に癒されます(#^.^#)

2021/02/14 (Sun) 09:46 |掛塚祭り |コメント(0)

掛塚屋台とお囃子(中町編)

前回の続きで、掛塚屋台とお囃子の中町編です。

・昭和44年の冊子
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・昭和52年の冊子
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当時は、破風の金箔が1段目のみに貼られていました。
現在は他町と同じように破風全体に金箔を施していますが、個人的には、昔の方が個性があって好きです。

中町旧屋台は、明治17年の火災で焼失しましたが、彫刻は立川昌敬が旧・廻船問屋、林家の土蔵に3年滞在し作成したと言われており、下絵が現存しています。

現在の屋台は明治39年に掛塚の名工、坂田歌吉が作成しており、特徴としては、天幕の大黒様のフォルムに合わせたような丸味を帯びた破風と、腰板が欅の玉目であることです。また、玉目を見せるために、敢えて腰板に漆を塗っていない点も個性があります。

彫りは、伊藤松次郎(彫松)と早瀬利三郎が大半を占めており、どれも分厚く迫力のある見事な彫りです。
お囃子も中町独特の音色で、掛塚で最も上品な曲調だと思います。

屋台・彫刻・天幕・お囃子のトータルバランスでは個人的に一番好きな町であるため、観光客の方には是非、見て頂きたい町です。

・1989年の新聞記事
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これは、私が学生時代に切り抜き、保管していたものです。
全文を読んでみると・・

貴船神社の掛塚屋台祭りで知られる磐田郡竜洋町の中町自治会で、百二十年以上前に作られた屋台の天幕を補修に出したところ、その下絵が葛飾北斎もしくはその弟子の作ではないかという鑑定結果を得たため、同自治会は天幕を完全修復し永久保存するほか、代用の複製天幕の製作を検討し始めた。

この天幕は江戸・慶応年間以前に作られたとされる。紅色に染めた羅紗(らしゃ)生地に、米俵を運ぶネズミ二十三匹匹と中央部に大黒天を絹糸で立体的に刺しゅうを施し、長さ約八メートル、幅約一メートル、屋台の屋根の下部周囲を飾る幕で、十月の貴船神社例大祭では掛塚町内の屋台八台で一緒に練り歩く。

何度も補修を重ねてきたが生地や刺しゅうの糸がほつれてしまい、実用に耐えられなくなったことから京都市上京区の川島織物中央技術センター美術工芸部に天幕を持参し、修理調査を依頼したところ、鑑定に当たった伝統工芸士・出原健三氏が葛飾北斎の「北斎漫画」に描かれたネズミの絵に酷似している点に注目し、下絵の作者(絵師)が特定できれば重要美術品にも匹敵する文化財である可能性が強いとの鑑定結果を、北斎漫画のコピーを添えて郵送してきた。

今のところ刺しゅうを行った職人も下絵の作者も不明。屋台彫刻の研究者はいても天幕の研究者は数少なく、作者を特定したくても相談する所が分からず同自治会は困惑気味だ。しかし、伝統美術の鑑定で定評がある川島織物の調査結果を得たことから同自治会は研究資金集めと複製の製作資金集めを開始する方針を固め、天幕に詳しい人も探すことにした。

掛塚屋台祭りばやしは、県の無形文化財に指定されていることもあって、同自治会の文化財屋台保存会役員、大手四郎さんは「補修には、ばく大な費用がかかるだろうが、わが町の文化遺産として後世に残したい」と話している。

以上が記事の全文です。あれから32年の月日が流れましたが、調査結果はどうなったのでしょう?
蟹町屋台の天幕も北斎漫画であり、非常に気になるところですが、個人的には掛塚祭りそのものをユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録された18府県33件の1つに加えてほしかったです。残念ながら静岡県からは1つも登録されていないため、今後は積極的にPRを進めていていきたいですね。

ちなみに中町屋台の天幕は、平成元年に復元新調しています。
以上、中町屋台のご紹介でした。
2021/02/07 (Sun) 12:03 |掛塚祭り |コメント(0)

プロフィール

南海丸

Author:南海丸
江戸から明治にかけ湊町として栄えた掛塚に在住の50代。
廻船問屋を営んでいた頃の船「南海丸」の名を借りてブログの世界へ出航し、掛塚の魅力を発信していきます。

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