掛塚湊の起源は古く、既に室町時代半ばの文献には登場しています。
都での建設需要の増加に伴い、北遠の山間部で切り出された材木は天竜川を下り、掛塚湊から江戸や大阪へ千石船で輸送され、特に江戸から明治時代にかけて繁栄しました。
しかし、掛塚湊は、もともと気まぐれに変わる天竜川の流れ次第で場所を移した不安定な湊であり、何より遠浅で砂も堆積しやすく、湊としては悪条件でした。
そこで、廻船業らは近代化を目指し、明治16年に築港に着手。2年掛かりで東西430m、南北215mの湊を、現在の「しおさい竜洋」南東側に造りましたが、元来の悪条件に追い打ちを掛けるように、明治22年には東海道線が開通し輸送の主流は鉄道に移り、掛塚港は衰退の一途をたどりました。
我家もブログのタイトルに使用している「南海丸」という船を所有し、廻船問屋を営んでいましたが、全くといっていいほど、当時の資料は残っていません。
そこで、今日は磐田市歴史資料館に所蔵されている貴重な廻船問屋の資料をご紹介していきたいと思います。
・船の舵輪

西洋型帆船「宝慶丸」(総トン数140トン、松下定七所有)に付いていたもの。
・千石船のランプ
中屋(松下文次郎)の所有船のもの。
・航海日誌用版木
これは、どの船で使用されていたか不明です。
残念ながら我家には、ほとんど資料は残っていませんが、何とか探してみると・・
少しだけ残っていました。
・送状
送り状は、北遠の材木問屋からの納品書兼請求書です。
真ん中の左上に「南海丸」の文字が確認できます。
・難破船舩入費取調書
これは、以前にもアップした画像ですが、名倉先生に依頼し、解読して頂きました。
難破船舩入費取調書
静岡県下 遠江国長上郡掛塚村 清安丸 池田藤七船 と書いてあるそうです。
つまり、我家の清安丸という船が難破し、費用を請求されているものですね(T_T)
・欅の箱
何を入れていた箱か不明ですが、形状が特殊です。材質が欅のため、かなり重たい箱です。
・焼印
我家の印はカクヤマで、積荷にはこの焼印を入れていたと思われます。
・北洋丸(写真表)
・北洋丸(写真裏)
大正3年10月 於露領沿海 インピラストル?港積木光景
インクが滲んで、正確に読み取れませんが、ロシア領に北洋丸が入港し材木を積んだものだと思われます。なぜ我家にこの写真が残っていたのか、掛塚とどんな繋がりがあったのか、大変気になりますが、詳細は不明です。
以上、遠州掛塚湊の廻船問屋のご紹介でした。廻船問屋の詳細は
過去のブログをご参照ください。